MY HERO’S INTERVIEW

GUEST プロフィール
勝村えみ子
1963年 岩手県陸前高田市生まれ
岩手県立高田高等学校、青山学院大学出身。モデル、専業主婦(15年間)を経て大手レストラン事業会社社長秘書、広報、芸能プロダクションマネージャー、キャスティングディレクターとして活躍。大学時代塾講師の経験をもち、東日本大震災をきっかけに、現在は日本語学校教師として教壇に立つ。ご主人は俳優の勝村政信さん。そして二十歳になる一人娘がいる。


えみ子さんとは“admires”「褒めあう会」という大人の友達が集まったグループの仲間。かれこれ十数年来のお友達です。美しくて清らか。そして穏やかで、大人の気遣いが出来る。頭脳明晰だから話がブレない。的を射たコメントもさすが。しかも遊び心も持ちあわせている、是非お手本にしたい私の憧れで大好きな女性です。

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NO.2 大学受験、恩師への思い。ニューヨークへ留学。

立河:えみ子さんが陸前高田から東京の青山学院大学へ進学しようと思ったのはどうして?

勝村:私ね、中学3年の時に担任だった国語教師の瀧本先生という方が大好きでとても尊敬していたの。ある日先生に進路相談をした時、私は何も考えず当然皆が行く地元の高校に進もうと思っていたんだけど、先生の第一声が「優雅な受験生よねー」って。「どうしてですか?」って訊くと、「なぜちゃんと勉強して私立の高校に進学し、そこから東京の大学へ行こうと思わないの?」って。「え?そんな道があったんですか?」ってビックリしちゃって。

立河:そういう進路があることを知らなかったんだ。

勝村:そうなの。実は初めて瀧本先生が青山学院大学出身ということと、“青学”という存在を知ったわけ。でも、地元の高校に進学クラスはあったけど進学校ではなく、卒業したら多くは専門学校に進むか就職するのが一般的だったの。

立河:受験すると言ったら大変だった?

勝村:うん。最初の年は青学なんて受けられないようなレベルだったから、諦めて幾つか他の大学を受験したけど、なんとインフルエンザで体調が悪くて試験どころじゃなかったの。結局両親に手をついて1年だけ浪人させてくださいってお願いして。ちょっと波乱万丈でしょ?(笑)

立河:うん。まさかの!だね。

勝村:その時、父に「浪人するメリットとデメリットを書きなさい」って言われて。

立河:それは画期的。

勝村:なんとなーく父と一緒に書き出したの。父にデメリットの説明をされた後、“メリットを活かせるように”ちゃんと頑張って勉強しなさいってお許しを得たんだよね。

立河:心の整理をつけて目標を見つけさせてくれるって素晴らしいお父さんだね。

勝村:そうかも。それからは毎日図書館に通って勉強して、塾ではひたすら過去問を解いて。模擬試験を受ける時だけ仙台へ行かせてもらうって生活をしたの。その中で少しずつ青学を受けるのを決意していったのね。そして1年が過ぎ、ついに受験の日を迎えるわけ。

立河:うん。

勝村:青学は短大、四大があるんだけど先に短大の合格発表があって、受かったの。家に電話をしたら他が落ちてたらいけないから入学手続きをしようってことになり書類を持って父が上京してきて。手続きをしに学校へ行ったらちょうど四大の合格発表もしていて「お父さん、ちょっと待ってて。発表やってるから一応見に行ってくる。」って行ってみたら、あったの。(笑)

立河:やった!!すごいね。

勝村:父と一緒に母へ電話して「お母さん、四大の方も受かってる、どうしよう?」って相談したら、折角1年浪人して頑張ったんだから、短大の2年より、4年間の大学に行けば?って。(笑) そして瀧本先生に青学に受かりましたって報告したの。

立河:涙が出てくるくらい素敵はお話。先生はきっとどこかでえみ子さんの才能を見出していらしたから、進路相談の時に質問を投げかけたのよね。

勝村:先生は私が青学を受けていることを知らなかったの。だから、すごく驚いてね。

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立河:密かに心に決めて頑張るって。感動だなぁ。喜ばれたでしょう?

勝村:そうだといいな。先生は今80歳くらいになられたと思うけどとてもお元気で、陸前高田に帰ると友達と会いにいくの。逆算すると私たちが中学生の頃っていくつだったんだろう?って思うよね。

立河:今の私たちより年下よね。先生って存在はずっと“大人”。

勝村:そうなの。先生は年齢を重ねてもそのまま変わらず、物言いも一緒だしね。きっと、教職を続けていらっしゃる方だから印象が変わらないのよね。先生の前だとつい中学生時代のままの自分になるの。

立河:素直になれるのかな。恩師がお元気でいらっしゃるのは嬉しいよね!

勝村:今も良き相談相手なの。少し前、瀧本先生に、「私日本語の先生をやってみようと思うんです。」って話をしたら、「あなたならできるわよ。」って背中を押していただいて。それで始めたの。

立河:だから最近、外国人に向けた日本語学校の先生を志したのね。これには深い理由があるよね。その前に、大学時代から現在に至るまでのえみ子さんのプロフィールがまた濃いよねー!

勝村:聞くー?(笑)

立河:うん。聞きたーい!(笑)

勝村:大学在学中から知り合いの学習塾を手伝っていたの。なのでそのまま塾の先生として就職をしようと思っていたんだけど、卒業する間際に知人が社長を務める会社で秘書をやってもらえないか?って声をかけていただいて。OLとして銀座に勤めてたのね。

立河:銀座とはなかなか華やかなOLさん!

勝村:1年ほど勤めたけどなんか違うなって。バブルの時代だったから秘書としても色んな経験をさせてもらったのはありがたかったけどね。そのあと大学時代に働いていた学習塾に戻ってまた英語の先生を始めたのよね。でも、沢山の生徒さんを教えているうちに、自分の中での知識がだんだん枯渇していくのを感じたの。私ももっと勉強しないと教えるものがないって。

立河:そしてそして??

勝村:私は知識と経験を積むためにアメリカに語学留学をする決意をしたわけ。

立河:幾つの時?

勝村:26の時、ニューヨークに行ったの。

立河:大都会!どうしてニューヨークを選んだの?

勝村:大学時代の同級生の女の子がバレエをやっていて、彼女がニューヨークのアメリカンダンスシアターに行って勉強をしたいと話していた時期がちょうど同じでね。一緒に行こうってことになって。彼女と同居しながら私はニューヨーク大学の語学スクールに留学したの。

立河:何年間?

勝村:2年。最初の半年くらいは学校に行ってたんだけど、アジア人って文法を義務教育で習ってるからクラス分けで上の方になるのね。そうすると2セメスター(学期)くらい行くと、それ以上のクラスはないの。だから卒業です、ってなっちゃって。でも学生ビザで行ってて、もっといたいじゃない?ニューヨーク。(笑)他のビザをもらうしかないよね、ならアメリカ人と結婚するしかいないかとも思った。(笑)

立河:あははは!そうよね。(笑)

勝村:英語の勉強しに行ってるんだもん。日本人のコミュニティーはあるけどアメリカ人と話さないと意味がないでしょ。(笑)

立河:ネイティブな英語を勉強するにはアメリカ人のボーイフレンド作るのが一番だって。(笑)

勝村:結局、アメリカ人と結婚することもなく(笑)仕事ができることになるんだけど、きっかけが同居していた友達の知り合いにカメラマンがいてシューティングモデルに誘われて始めてたのね。すると作品が溜まっていくじゃない?で、カメラマンが仕事を探してるならこの作品をブックにしてどこかモデル事務所にでも持って行ったら?仕事できるかもよって悪知恵を働かせてくれて。(笑)

立河:アメリカのモデル事務所ってどうやって探したの?

勝村:新聞や電話帳で探してアポを取っていくの。それでなんとOKもらったんだよね。当時、東洋モデルって需要も少なくてあまりいなかったの。しかも私は背が小さいしね。

立河:え?えみ子さんの身長で小さいと言われるの?

勝村:そうなの。当時はナオミキャンベルなんかが売れていたスーパーモデル時代。平均180センチはあるわけ。だから私はコレクションのランウェイを歩くモデルじゃなく展示会用のバイヤーショーでフィッティングモデルをやるの。まぁ仕事としてモデルができるならいいやって。

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立河:えみ子さんがモデルになったきっかけって、“ちやほやされて”じゃなくたまたまの流れだったんだね。

勝村:あははは!そう。ニューヨークにいる手段としてたまたまモデルになったの。

立河:へぇ。そこには自己顕示欲なんてないんだね。

勝村:そんなのないよ。(笑)自分でモデルができるとか、なりたいなんて なかったもん。

立河:だからこうしてフラットに自然体でいれるんだね。これぞ美よね。

勝村:全然いい思いもしてないよ。パリコレの時期、事務所に勧められてニューヨークからパリに行ったんだけど、直後に湾岸戦争が始まったの。街中にはマシンガンを持った兵隊さんがいっぱい。そんな中、オーディション場所の住所と名前だけは教えてもらってあとは地図を頼りに電車に乗って一人で向かうんだよね。

立河:うわわ。マネージャーとか、守ってくれる人が同行してくれるわけじゃないんだ。命がけだね。強いなー。

勝村:で、その場所に着くでしょ。もう何人ものモデルが並んでるの。順番が来て作品のブックを見せて英語で事務所と自分の名前を言うと、じゃあ歩いてみて、はいOK,はいNG、その場で仕事が決まったり落ちたりするの。多分100件くらい回ったと思う。パリ中歩いたって感じ。仕事を終えて、ニューヨークに戻りたいんだけど、湾岸戦争の影響でなかなか帰れず、1ヶ月の滞在予定が3ヶ月くらいに伸びて、本当にお金がなくてフランスパンをかじってなんとか凌いでた。だからモデルとしていい思いはしてないんだよね。(笑)

取材/文 タチカワ ノリコ
Photo Kaoru Yamamoto

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