MY HERO'S INTERVIEW

GUEST プロフィール
柳生 博
1937年生まれ。茨城県出身。俳優・司会・タレント。作庭家。公益財団法人・日本野鳥の会会長。船員を目指し東京商船大学(現:東京海洋大学)に入学するも視力を落とし中退。その後俳優を志し劇団俳優座の養成所に入る。ドラマ・映画・舞台・バラエティ番組で活躍。NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」テレビ朝日「100万円クイズハンター」司会、NHK「生き物地球紀行」ほか多数。1989年山梨県北杜市大泉村にギャラリーレストラン、八ヶ岳倶楽部を開設。
著書「森と暮らす森に学ぶ」「八ヶ岳倶楽部II それからの森」「じいじの森」など。


今回は八ヶ岳倶楽部のパパさんこと柳生博さんをゲストにお迎えします。空、風、木々、花々、鳥、太陽、月、星。それに触れたくて訪れる八ヶ岳にはいつも穏やかな笑顔で出迎えてくれるパパさんがいます。どこかで「ただいま。」という気持ちになるここは私の一番大好きな場所。そして大好きなパパさんにアイデンティティを伺いました。ゆったりと丁寧にお話しくださるその声、優しさ、強さが胸に響きいつも涙が出てしまいます。心を浄化してくれる、そんな場所でありそこに存在するパパさんです。

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NO.4 商船大学から俳優、そしてタレントへ

立河:パパさんは子供の頃からおじいちゃんたちと野良仕事をしながら、何か夢って抱いていたんですか?

柳生:外国に行きたいっていつも思ってたね。それは映画を見たり、後々小説を読んだりしたからというのもあるけど、それで外国に行ける商船大学を受けたんだ。

立河:商船大学?

柳生:うん。地主の子供っていうのは必ず勉強をさせられるんです。ひたすら勉強をする。自分たちがいる集落の一部分の話ではなく、気象予報士みたいなもので日本のことや世界、地球のこともね。それは広い意味で数学なんだ。僕は数学が得意だったんだよ。だから子供の頃から得意だった数学を活かした道に行こうと思ってた。その数学だけでいろんな大学に受かったんだよね。それほどの威力があるんですよ。結局、外国のいろんな世界が見てみたくて商船大学を選んだんだ。

立河:外国へ行きたいから得意だった数学を活かして商船大学に入学?

柳生:そう。それならどうしたらいいか?船乗りになればいいんですよ。昔は旅行するための飛行機なんてなかったからね。だから船長になればいい。それで商船大学に進むんだよね。これが難しい大学で、東大や京大を受かった人が行くような大学。つまり、船っていうのはね、ひたすら数学なんだ。

立河:船が数学?それはどんなことにつながってくるんですか?

柳生:波や気候、もっと言えば宇宙につながる。航海のために正確な船の位置を測定する緯度・経度計算や速度計算は天文学、物理学、地理学にまで及ぶんだよね。それは全て数学に通じているんだ。

立河:難しそう。単純に距離÷速さ=時間じゃないんですもんね。

柳生:そして船長というのは権力を持っていて命も預かり、そして外国にも行ける。船長って憧れの仕事。だから僕は商船大学時代はどうしようもなくもてたよね(笑)実習航海でいろんな港に行くじゃない?すると女性たちが「いつか、この人は船長になるんだぁって。」(笑)

立河:港、港に?(笑)

柳生:そう。(笑)でもね、2年の時に近眼になっちゃったんだ。それは海や青春をテーマにして小説や雑文を書いたりしていたから。結局商船大学を卒業しても厳しい身体検査があって、近眼だと国家試験が通らない時代だったから、中退したんだよね。

立河:そこから俳優への道を選んだのはどうしてですか?

宗助:僕は子供の頃から対人赤面恐怖症だったんだよ。だから学芸会も出られなかったんだ。それが役者になるんだから不思議だよね。

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立河:それなのにどうして??

柳生:その時にちょうどアメリカ文学に興味を持っていて、僕が好きで読んでいたスタインベックの「エデンの東」が映画になったんだ。その映画観たらね、小説書いてる場合じゃないやって。それくらい世界中の若者の胸ぐらを掴んで揺さぶった映画でしたよ。つまりああいう風に演じるということ自分の負の部分を見せて、それが尊いんだよという演技はそれまでなかった。“愛というのは”どこかすました顔して、いいアングルで撮る、または悪役は悪っぽく演じる、そういったたわいもないものだと思っていたけど、あの表現を観た時、もう物書きをしてる場合じゃないなと思ってね。それで俳優座の試験を受けたんだよ。これもまた難しい試験なんだけど、受かっちゃったんだよ。学芸会もやったことのない男だったのにね。

立河:ジェームスディーンに憧れて?どんな試験なんですか?

柳生:海水パンツ姿でね、エチュードみたいなのがあってね。茨城訛りのひどいもんだったよ。(笑)僕が出て行くとあまりに下手だからみんな笑うんだよ。それは小劇場などですでに売り出しているような役者が受けるような試験なんだよ?お前は何か得意なことはないのか?と聞かれて、僕は数学が得意です。というと、では数学について話せっていうから、数学と美学について語ったんだ。そしたら拍手がわいてね。審査員たちは、「こいつは役者としてはダメかもしれないけど役者で数学が得意だなんて珍しい」って面白がってくれたんだよね。

立河:それからパパさんの俳優人生が始まったんですね。

柳生:僕は絵や音楽が好きなんだけど全く修行をしたことがないんだよ。役者もそうだよね。役者は新劇でやっていたんだけど「役者はテレビカメラを見て喋るな」とか「役者は自分の素を出すな、その役を演じろ」とかものすごく厳しいじゃない。東野英治郎、小沢栄太郎、そういった先輩たちが俳優座時代や少し売れてきた僕を買ってくれてね、お前は俺の跡を継げって。僕はこういう人たちに好かれたんだ。でも彼らには役者としてのイデオロギーがあってね、厳しいことを言われたもんだよ。

立河:どんなこと?

柳生:僕が売れてきたある時、NHKのクイズ番組なんかに出るようになった。そしたら先輩たちが怒っちゃってね。お前みたいな役者は俺の仲間じゃない。役者なのに、自分の言葉でテレビに向かって話すなんてみっともないことやるな、何を考えているんだ。舞台俳優は王道を行かなきゃならないってね。

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立河:パパさんは現代の“タレント”の基盤を作った第一人者ですよね。パパさんの時代、役者はバラエティに出てはいけなかったんですか?

柳生:絶対にそんなこと有り得ない。それは恥ずかしいことだと彼らに糺弾されたことだけど、僕は好きなんだよね。テレビカメラに向かって話すのが。

立河:その、“好き”が視聴者の方に伝わって、パパさんの番組は人気があったんでしょうね。他にもたくさんの作品に出演されていますが、ご自身で印象に残ってる作品は?

柳生:それはね、NHKの「いちばん星」で野口雨情役をやった時だね。茨城県訛りでね、「赤い靴履いた女の子、異人さんにつれられていっちゃった。ビールください。」なんて台詞があってね。この役はもてたんだよね。「俺は河原枯れすすき、同じお前も枯れすすき」なんてメロディというかセリフがとめどもなくあるんだよね。みなさんそのドラマを目に涙、浮かべながら懐かしんで観てくれていたんだよね。下手は役者としては理想的な役だったね。下手にやればいいんだもん。

立河:その独特な言葉のトーンがきっと、見る人の心を打ったんですよね。

柳生:ただ僕はね、役者の好きだった部分は、役をもらって台本を読んだ時、例えば今、自分は靴を履いているんだろうか、草履なんだろうか?着物だろうか?下にはももひきを履いているだろうか?今、どんな風が吹いているだろうか?って限定的に自分でその時代を空想することができたからなんだよ。これは草履じゃなくて下駄だな。高下駄だろうか?ちょっと前に雨が降っただろうから高下駄だろうな、って想像しながら自分を追い込んでいくのが役者ならではだね。その作業がものすごく好きだったね。だからその時代のことを細かく調べて研究するんだよね。

取材/文 タチカワ ノリコ
Photo 北杜 薫

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