MY HERO’S INTERVIEW

今月のゲストは昨年まで北海道FMラジオAIR-G、杏子のSence of Beautyの美容コーナーを担当させていただいていたときにお世話になったラジオ制作・プロデューサーの桜井聖子さんをゲストにお迎えします。包み込むような優しさの中に芯の強さを感じる、同じ女性として、人生の先輩として尊敬している桜井さんにアイデンティティを伺います。


GUEST プロフィール
桜井聖子(さくらいきよこ) Kiyoko Sakurai
1958年生まれ。有限会社 さくら 代表取締役。 日本大学芸術学部放送学科卒業。(株)テレコム・サウンズ入社、J-WAVE、TBSラジオ、FM横浜、InterFM897、JFM)イベントの企画・制作・プロデュース。放送批評懇親会理事・企画事業副委員長。

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Vol.3『その日その日を感謝して大切に生きる覚悟』

立河:さくらさん、結局放送学科に学び、テレビではなくラジオの道を選んだのはどうしてですか?

さくら:音楽と人が好きだから。

立河:人が好きでラジオ…?

さくら:そう。人が話す言葉。映像がない分、人は多く語ろうとするでしょ?そこで見え隠れするその人の本質っていうのがあるからそれが好き。 人が好きなのは家族がベースにあると思うの。両親や兄弟がいて、一生懸命私を育ててくれて、「人肌」というものをきちんと教えてくれたのね。ご多聞にもれず、近所の子にいじめられて泣いたこともあったけど、そんな時に救ってくれた友達や家族がいたのね。草花やペットたちももちろん癒してくれる。でも究極は友達や家族の「手当て」なのよね。人が好きというのはそこからきてるの。

立河:手当て。私の大好きな言葉。そうですよね。あぁ、当たり前にあることだと思っていたけれど、改めて言葉で聞くと、心にしみます。

さくら:だからこうして手当てをしてくれる人の言葉を聞きいてみたいし、その中に隠れている何かを聞き出したいと思うようになったのかもしれない。 でもね、人の言葉も好きなんだけど同じくらい、音楽が好きなの。詳しくはなくても音楽が好き。ラジオは言葉と音楽だから。そのふたつが両輪で走っているラジオが好きなの。

立河:今は時代が変わりリスナー離れが進んでいると聞きますが…

さくら:実は戻ってきているんです。なぜならテレビをつまらないと感じる人が増えたから。例えば大学生など若い方に訊くと好きなお笑いタレントさんがテレビで話しているのと、ラジオで話しているのを較べると全然違ってて面白いというのね。ラジオも形態が変わってきたでしょ?インターネットでも手軽に聴けるようになったし。東京のAM局3社は番組をFM波でも同時に流すワイドFM(FM補完放送)というのがスタートするし。ラジオのハードの変化はあるけど、基本的なコンテンツ、言葉と音楽は変わらなのよね。最新のヒット曲もある、でも昔からあるものがビンテージ音楽として永く愛される。時代とともに変化のある音楽や言葉は「生きている」からそれを扱える仕事ができるのは幸せですね。

立河:ラジオは言葉や音からいろんなことが想像できるから楽しいですよね。運転中いつもラジオをかけています。ふと流れた曲がその日の空の色に合っていたり、懐かしい音楽だったりすると、優しい気持ちになれたりして。DJの声や言葉に元気をもらうことも沢山あります。ところでさくらさんはどうしてプロデューサーの道を選んだんですか?人を目的地に誘導する作業って根気がないとなかなかできないと思うんです。

さくら:これもね、生徒会長のときと同じで、なりたくてなったわけではないの。1988年にJ-WAVEが開局されました。当時、私はテレコムサウンズという会社に所属していてディレクターとして朝9時から12時、午後12時から4時までワイド番組の演出を週替わりでしていました。もちろん他局も。当時、10歳も年齢が離れたプロデューサーが上司でいたんですがある日その方が辞めてしまったの。するとプロデューサー不在になってしまったので、ワイド番組を週替わりでやっているならJ-WAVEのことは一番わかるだろうという会社の判断で桜井君、君がやりなさい、ってことになってしまったの。

立河:それはディレクターもやりながらですか?すごい仕事量だったんじゃないですか?

さくら:そうなの。バブル絶頂期で予算もあったから大変だったの。スポンサーが変わるとそのスポンサーに合わせて頭を切り替えて番組の内容を変更しなきゃならない、その対応は大変でした。それが31、2歳の時。

立河:若いのに敏腕ですね。

さくら:プロデューサー会議では年上の男性ばかり。当時女性プロデューサーが珍しかったんだけど、そこに若手の私一人がポツンと入るの。これは学ばないといけないなと思いました。ほとんど耳学問です。一つの案件に対してそれぞれが正反対の意見を出すんです。私にも意見を求められるので、恐縮しながらも女性の目線としての考えを話したんですよね。

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立河:そこからプロデューサーとしてのお仕事が始まったんですね。

さくら:ある日、アフリカの音楽ライブ企画を持ってきてくださった方がいて、そのライブをやったことがきっかけになり、音楽に国境はないというテーマでラジオ番組を企画しました。あわせて海外からワールドミュージック系のアーティストをお呼びして年間何本かライブもやっていたんですね。で、知り合いの招聘プロダクションが企画した「フェスティバル春」という音楽フェスがあって、フランスのアーティストを日本に連れてくる、一方日本のアーティストをフランスへ連れて行くという文化交流をフランス文化省がサポートしてたんです。それを番組でも紹介することになって、私もパリから北、東、南、西と音楽ロードに立ち会うっていうのを2年ほどやっていたんです。大変だったけどそれがとても楽しかったんです。そのときにまだ日本には紹介されていない音楽って沢山あるしいろんな文化交流って面白いなと思ったのが33歳のとき。 ただ、プロデューサーとして会社にいるとスケジュールや番組の管理をしなければならない。でも海外に行くと最低でも1週間は留守にするから会社に迷惑をかける。という中でもう少し自分の時間が欲しくなったのね。そのとき父の「自由に生きなさい」という遺言を思い出して。それで独立させていただいたの。

立河:さくらさんの人生ってなるべくしてなっている感じがします。ということは次は会社の経営をすることになるんですね。

さくら:これもまた会社を作るつもりがなく、フリーランスでやろうと思っていたんだけど私が出したある企画が通った時に、バジェットは個人名義には支払えないので、会社法人にして欲しいと言われたことがきっかけで、さくらを設立したんです。ずっと一人で何役もこなしてきましたが現場で演出をしなくなったのはここ3年くらい。それまでは番組制作、プロデュース、会社経営とやることが沢山あって大変でした。

立河:それは寝る暇ないですよね。これだけ多忙を極めて、しかも長年続けていらっしゃるといろんなことがあったかと思います。それまで転職しようと思ったことは?

さくら:ないです。他に何をしたいかが思いつかないから。大きな失敗も本当に酷いことをされたことも沢山あるけど心が折れたことはないんです。なぜかというとそんな時に一緒に泣いてくれる人が隣にいたんですよね。その時は飲んで飲んでクダ巻いて。(笑)でも辞めてやろうなんて思わない。悔しいけどこんなことがあるんだなあ、で終わり。悔しいと思えるということはまだ立ち上がれる能力が残ってるんですよ。だって生きてるんだもん。いろんなことがあって当然なの。

立河:強いなぁ。一つのことをやり続けているさくらさんは格好いいです。

さくら:人間ってそんなに格好いいものではないんです。昔から私はね、もし人生に覚悟というものがあるんだとしたら、一度きりの人生というものに覚悟をして人と接し、自分の考えを伝える。だからその日をその日を感謝と反省をして大切に生きるんです。

取材/文 タチカワ ノリコ
Photo Takeru

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To be continue Vol.4

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