MY HERO’S INTERVIEW

今月のゲストは思い起こすともう22年ものお付き合いになるカメラマンの萩庭桂太さんをゲストにお迎えしました。長年公私ともに撮影をお願いしています。カメラ・写真を通して何を訴えているのか、写真とは何か?人気カメラマンの萩庭さんのアイデンティティをお聞かせいただきます。


GUEST プロフィール
萩庭桂太 Keita Haginiwa
1966年東京生まれ。東京写真専門学校卒業後、フリーランス・カメラマンとして活動開始。 雑誌、広告、CDジャケット、カレンダー、WEB、等幅広いメディアで活動中。 ポートレート撮影を中心に仕事のジャンルは多岐にわたる。 「写真家」ではなく「写真屋」、作家ではなく職人であることをポリシーとしている。 雑誌は週刊文春など週刊誌のグラビア撮影を始め、幅広い世代の女性ファッション誌の表紙を撮影中。
http://www.haginiwa.com/

MY HERO’S INTERVIEW

Vol.2『ターニングポイント』

立河:20歳からフリーランスとして活動するようになり、報道からファッション・グラビアのカメラマンに移行したのはどうして?

萩庭:報道の仕事っていうのは、その時何があったのかを取材していくんだけど、編集者とある現場に行って話を聞いていくと、大人の事情みたいなもので本当に報道しなきゃならないことは、報道することができないってことを知ったんだよね。だから辞めたの。 そこでマスコミの何たるやを学んだね。 最初に裏側から入ったから良かったと思う。それなら、もっとハッピーになるものに写真の技術を使ったほうがいいと思って、ファッションやグラビアに移行したんだ。

立河:なるほど。それで同じ「報道」というカテゴリーでも事件や事故という直接的なものではなく、写真全体を通しての「報道」カメラマンになったんですね。

萩庭:実を言うと「写真」というものには興味ないの。メディアとして何かを伝えるための写真には興味があるんだけど、どんな紙にプリントして、どんな額に入れて、という見せ方には全く興味がないの。そこに写っているものが「何を伝えているのか」に見合ったことだったらいいと思う。写真芸術は別だよ。つまり小説みたいに自分の中から出てくるものを表現するという写真はいいと思う。そこにあるものだけを捉えている写真は面白みが全くない。

立河:萩庭さんにとっての写真は全て報道からなるものなんですね。

萩庭:いわゆるみんなが言っている報道とは違うんだ。報道はファッションなんだよね。つまり、ドキュメンタリーファッション。ファッションにはアパレルって言葉は一切ないからね。ライブなんだ。最初に言った「時代の背景」がファッションなんだよ。

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立河:萩庭さんの報道=ファッション=時。その構図に納得! ところで報道からファッション・グラビアのカメラマンに移行した時の苦労はありますか?

萩庭:20〜21歳で報道をやって、グラビアは22歳の時からかな。アシスタント時代に先生がファッション、音楽、人物を撮っていたからそこで勉強してた。だから報道からグラビアに移行してもすんなりシフトできたね。

立河:最初のグラビアの仕事は?

萩庭:週刊文春で撮ったのが初めて。その頃の文春は年齢層の高い読者向けだったからカラーなら富士山、モノクロなら仏像とかだったの。

立河:硬い週刊誌ってイメージがありました。

萩庭:そう。今とはだいぶ違っていて経済、文学がメインだった。そのイメージを払拭するのに当時の編集部から、女の子の写真を撮ってこいって言われて撮るようになった。でもその頃の文春のイメージでは女の子たちに取材をかけても出たがらない。タレント事務所に行っても門前払いされることも多かった。ようやく出てくれるモデルがいても予算もなくヘアメイクやスタイリストもつけられない、スタジオも借りられない。いわゆる報道の延長だからね。だから外の公園や道端で撮るんだよね。そんな環境でも新人のモデルやタレント本人、事務所のマネージャーや社長が、写真を気に入ってくれて。当時新人だったモデルが売れてくるとカメラマンは萩庭さんでって指名されるようになったんだよね。

立河:そうやって広がっていったんですね。ターニングポイントだ。

萩庭:そう。ある時を界に急に仕事が増えた。その時は週刊文春しかやってなかったけど、当時100万部出てたから業界の人はグラビアページにカメラマンとして名前が載ってるのを見てる。だから名前だけは売れてる。でも文春しかやっていないからオレのことを社内カメラマンだと思ってるんだよね。その時に週刊プレイボーイの編集から連絡が来て、「社内カメラマンだとは思うんですけど、一度お話しさせていただけませんか?」って。いやいや、僕はフリーランスですよ、ということで会ったのが、その後編集長にまでなった人だったの。当時、彼は新入社員だったんだけど、初めて組んだのがオレだった。それから一緒に仕事するようになったんだ。

立河:新入社員?ということはいくつだったんですか?

萩庭:二人とも23歳だよ。同い年。

立河:えー??そんなに若かったんですね。すごいなぁ。そんな若者が大きな仕事を担ってやってたんですね。

萩庭:週刊プレイボーイのデビューが間中、7Pか8Pのグラビアを撮ったの。その写真が好評でね、クレジットで俺の名前があるのを見た業界関係者が、あれ?萩庭は週刊文春の社内カメラマンじゃないのか?ってことになって、他からもいっぱい仕事が来るようになったんだ。

立河:追い風!

萩庭:でも、文春の原色美女図鑑は撮らせてもらえなかったんだ。あれはベテランのカメラマンが女の子をどう撮るかという企画なの。まだ当時のオレは若かったから呼ばれないんだよね。ある時、編集部にいろんなカメラマンがいるから見て勉強してきなさいって言われて、その現場に編集者のアシスタントとして同行するんだ。そこでお茶出ししながら、撮影現場を見せてもらう。撮影が終わるとその日のカメラマンに疑問に思ったところを聞きに行くの。そうするとお前はなんだ?って訊かれるから、実はカメラマンなんです、勉強しにきました。っていうと、快く教えてもらえるんだよね。そうして大勢の大御所と言われる先輩カメラマンと仲良くなったんだよね。

立河:当時、20代始めの萩庭さんはまだ新人だったかもしれないけど、今は場数も踏んですっかり大御所の域ですね。

萩庭:そんなこともないけど(笑)

取材/文 タチカワ ノリコ
Photo Takeru

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To be continue Vol.3

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