MY HERO’S INTERVIEW

GUEST プロフィール
岩城哲哉さん
1953年 東京都墨田区向島生まれ
1977年武蔵大学経済学部卒業。
新光紙器(現BEAMS)に入社。同社取締役を経て退社。1989年重松理氏らと共にユナイテッドアローズ設立に参画。2002年、東京証券取引所、市場第二部に株式を上場。取締役副社長、代表取締役社長を経て2012年、相談役となる。現在、株式会社ニュー・ビジョン代表取締役社長。
ホテル京都一軒町屋 さと居「鉄仙」が人気を呼ぶ。

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岩城さんとは知人のご紹介を受け、以降公私ともにお世話になっています。スタイリッシュでいらしていつも飄々とし、物事に動じない。それでいて気さくに可笑しなお話をしてくださいます。ユナイテッドアローズというアパレルブランドをグローバル化させ、成功させた見事な手腕ながら持ち前の飄々としたキャラクターで常に次世代を見つめ様々な角度からチャレンジを続けていらっしゃる、岩城さんのアイデンティティに迫ります。

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Vol.2 ファッションはUp to date

立河:街路樹に目印で吊るしていた革ジャンをみて高倉健さんが訪ねていらしたのをきっかけに、そこからスタイリングアドバイスをするようになるまでどうやって信頼関係を築いたんですか?

岩城:当時は、僕たちが買い付けてくるような服は世間で珍しかったんです。高倉さんは休みになるとアメリカやヨーロッパに行かれる方で、服を良くご存知でした。「君たち、よく集めてるね。」という感じから話をするようになって、同じのを事務所の奴にあげるからって言って沢山買ってくださったり、今度、こういうのを探して欲しいっていうものも依頼されるようになりました。

立河:高倉さんはおしゃれな方なんですね。

岩城:そうなんです。僕らが知らないロサンゼルスにあるアウトドアショップなどを教えてくださって、ここに良いのがいっぱいあるから行ってみればと。

立河:そういう情報のやりとりも信頼関係ですよね。それもまたブランディングされていく要素なのでしょうか。お客様からも教わることや情報交換するコミニュケーション能力も岩城さんの魅力なのかと感じました。

岩城:高倉さんの方が良くご存知でいろんなことを教わりました。そしてご自身の体型に関しても一番よくわかっていらっしゃった。

立河:今からもう40年近く前ですね。当時の岩城さんはまだ二十代ですか?

岩城:そうですね。大学を卒業後、ほどなくしてです。81年にBEAMSの新ブランドで“インターナショナルギャラリー”を開いたんですよ。インポートなどのデザイナーものも集めて、アメカジとは系統が変わっているブランドです。その時のレセプションパーティも健さんは来てくれました。健さんとの信頼関係は、僕が俳優として意識をしなかったせいかもしれません。

立河:それは岩城さんの中でルールがあるんですか?

岩城:重松さん(BEAMS1号店店長でアローズ創設者、重松理氏)もそうですけど、僕たちはどなたがいらしても平等で接客の対応は同じなんです。それが良かったみたいですね。

立河:岩城さんと重松さんのぶれないスタンスの一部。

岩城:そうですね。高倉さんがそうやってBEAMSに来てくださるので事務所の後輩役者たちも興味津々なんだけど“健さんが行く店”だから来れないんです。でもしばらく経って高倉さんの許可が降りて来てくださったのが小林稔侍さんでした。

立河:俳優の縦社会を重んじていらしたんですね。

岩城:「高倉さんに言われて来ました」っておっしゃってました。「これからは私が通います」と。高倉さんにとって当時のBEAMSがもっているスタンダードな姿勢みたいなものは“これ以上変わらないだろう”という、どこかマンネリ感を持ち始めていた時期だったのかもしれません。

立河:ご自身の会社をそのように客観的に分析できるその冷静さも成功を導くために大切な要素ですよね。どうしてそんな風に見れるのでしょう?

岩城:大学時代からそうですよ。

立河:心がけたんですか?

岩城:そうかもしれません。子供の頃僕はすごく乱暴者だったんですよ。(笑)ガキ大将でね。「何でも俺がやる」っていう精神でした。このまま成長すると危ないというので祖母と父から一度キツく叱られたことがありました。そこで何でもやりすぎると結果が良くないというのを学んだんですね。

立河:“引く”ということを覚えたということ?

岩城:うん。引いておいたほうがいいんじゃないのかなと。

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立河:そこから独特な岩城さんの飄々としたキャラクターが生まれたんですね。 さて、岩城さんは昔から服がお好きだったんですか?

岩城:高校生の頃から興味が出てきて、上野のアメ横によく見に行ってました。

立河:どんなファッションだったんですか?

岩城:長髪にベルボトム、ヒッピーな感じの時代もありました。それからスケートボードとサーフィンが好きになって今で言うアメカジでした。当時は原宿にスケートボードを持って出かけてました。

立河:岩城さんがサーファーだったとは。しかもローラースケートじゃなく、スケボーですか?私はその時代にスケボーがあったことを知りませんでした。

岩城:もうあったんですよ。実家がネクタイの縫製業を営んでいたのでミシンがあるんです。生成りのテント用の生地を買ってきてデザインをシルクスクリーンでプリントしてスケートボードを入れるバッグを作りBEAMSに卸して販売していました。

立河:ご実家がネクタイの縫製業ということはお子さんの頃からファッションが身近なものだったんですね。岩城さん、ミシンも使えるんですか?

岩城:うん。直線で縫うものでしたから僕でも作れたんですよ。そうやって大学時代はBEAMSでバイトしながらシルクスクリーン工房みたいなのもやっていました。それが結構売れたんですよ。(笑)

立河:趣味の中からこんなのがあったらいいな、というアイディアで生まれたんですね。こんな時ってすごく活気があって楽しそうですね。

岩城:そのあとは東海岸のファッションになりました。“アップトゥデイトトラディショナル”です。当時ウッディ・アレンの「アニーホール」という映画が公開されて、そのさりげなさにアメリカンカジュアルスタイルを見つけました。

立河:アニーホールではメンズものを女性が着るっていうスタイルだそうですね。こうしてファッションは時代が巡っていくんですね。では岩城さんがユナイテッドアローズを創設するまでのきっかけと時系列は…?

岩城:大学時代、よく出かけていた上野のアメ横にあったミウラ商店(現SHIPS)でのアルバイトから始まりました。ここでは米軍ベースの放出品を売っていました。その後大学の勉強が忙しくてバイトを1年ほど休んでいた時、BEAMSを始めた重松さんから誰か販売が出来る若い人を探して欲しいと頼まれた大学の先輩がいて、その人の紹介で重松さんを訪ね、BEAMSでバイトするようになったんです。

立河:重松さんとはそういう出会いだったんですね。

岩城:重松さんはアパレルをやっていたから、ものを作ったり営業のノウハウはありましたが、小売のオペレーションはわからなかったのでお店の現場は僕が任されていました。

立河:大学生のアルバイトで、すでにお店を任されたところに運命的なものを感じますね。

取材/文 タチカワ ノリコ
Photo 北杜 薫

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